私の運動音痴っぷり

運動が苦手でした。 第1節 中学時代
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運動が苦手でした。画像:あつまれ どうぶつの森©︎Nintendo



中学時代、私は、ある運動部に入っていました。

中学生になって、どの部活に入ろうか、迷いました。
音楽が好きだったので、ブラスバンドか合唱か。
ブラスバンドは楽器が高額だから、我が家には経済的にキビシイだろうから難しいかな。
学校の楽器を借りられると言っても、きっと欲しくなるし。
などと考えつつ、友達と一緒にいくつかの部活を見学したのですが、
結局、先輩が面白くて可愛くて、小学校時代の何人かの友達が入部すると言うので、その運動部に決めました。

運動部に決めたことを、父母がビックリして心配するくらいの運動音痴の私でした。

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私の運動音痴っぷり

どのくらいの運動音痴かと言うと。

逆立ちができない

小学校1年生くらいのときかな? 私は覚えていなくて、母から聞いたのだけれど。
父が私の足を支えて、逆立ちをさせ、そ~っと手を放してみたら、私は腕がグシャッとなって顔から倒れたらしい。
圧倒的に、腕の力が弱かった!

練習しました

父母が心配して、しょっちゅう逆立ちの練習をし、壁倒立が出来るようになりました♪ パチパチパチ。
→支えなしの倒立はできないので、倒立前転は「なんちゃって」レベルですが、体は柔らかい方なので倒立ブリッジは得意になりました。

コマ付き自転車でコケる

これまた、幼稚園年長〜小学1年生の頃。
自転車をコマ付きで練習していて、しょっちゅうコケて泣いていたらしい。
と、両親からよく言われていた。「コマ付いてたのに〜」って。

今では、自転車、ちゃんと乗れます

これも、父母が私の鈍臭さを心配していたのだろうなあ。
でも、コマが付いていると曲がる時とかに却って転けやすいと思うけど?
そりゃ、コマを後輪よりも少し浮かすように付けてくれていたが。

家の前で何日も練習した。
片方のコマを外して→コマ無しで後ろを母に支えてもらって・・・等、順を追って。

コマ付き自転車。これは、水族館そばの自転車練習場?
コマ付き自転車。これは、水族館そばの自転車練習場?



跳び箱、とべない

小学校3年生の時、跳び箱の授業があり、とべず。
→放課後、居残り練習がありました。たぶん、1週間くらい。15人くらい居たかも。
最終日に跳べるようになりました! 最後から2~3人目くらいだったと思う。最終的には全員とべるようになった記憶。
(居残り練習までしてくれて、良い先生だったなあ。)

→1年後の小学4年生時、跳べなくなっていた!!
少し練習したら、体が思い出したのか、跳べるようにはなったのだけれど、「閉脚跳び(抱え込み跳び)」が怖くて中々とべなくて。
頑張って練習して、いちばん低い状態(三段くらい?)なら閉脚跳びも跳べるようになりました。

運動会での複雑な心境

秋の運動会(私が通っていた小学校では春・秋の2回、運動会が開催されました)、
小4の演目は「器械体操」でマット運動と跳び箱を披露するというもの。
私、開脚跳びなら五段くらい跳べるようになっていたのだけれど、閉脚跳びに自信がなかったので、いちばん端っこの低い跳び箱のところに並ぶことにしました。
同じように閉脚跳びが苦手でも、五~六段のところに並ぶことを選択した子たちは居たんだけどね。。。
私は、そういうトコ、ヘンに真面目だったの。。。
でも、なーんか悔しかった。恥ずかしかった。
いちばん端っこの跳び箱ってことは、自分が下手っぴであることを披露するってことじゃないですか。

今、考えてみても、どうすべきだったか、分からない。自分自身の自信の為に、開脚跳びに合わせて五段の跳び箱を選ぶべきだったのか、閉脚跳びに合わせて正解だったのか。

よく考えたら、「開脚跳び」と「閉脚跳び」、それぞれの発表の時に、並び直すように企画してくれたら良かったんじゃない? 先生方が。
私だけじゃなくて、どちらかだけ得意な子も居るのだから。

苦手な運動をコツコツと続け、

冒頭で述べたように、中学校で運動部を選択したことで、
毎日走ったり練習したりしているうちに、筋力なのか運動センスなのかが少し向上し、
中3の時に最高段(たしか八段)を跳べるようになりました! わーい♪ (ただし、開脚跳び)

50m走

小学校4年生の時、体育の授業で50m走のタイムを初めて計りました。
先生が成績を付けるために、あいうえお順でした。
私の本名は、あいうえお順で後ろの方(セキタミヤコはブログでのニックネームです)だったから、先に走った子たちのタイムをを見ていました。
小4なので速い子で8秒台、ほかは大体9秒台。
じゃあ、運動の苦手な私は、9秒後半くらいかな~と考えながら、自分の順番を待ちました。

私のタイムは、10秒ちょうどでした。。。

ビックリした。
ウソォ??って思ったもん笑。私だけ、整数部分2ケタ?
そうやって、自分の運動音痴を少しずつ自覚していった子供時代。。。

握力

小中学生の時。体力診断テストで握力を測定。
周りの子(女子)は、中学時代で22kgとか25kgとかで、この時も、私は、「私もそれくらいかな~」と思いながら測定。

20kg未満でした。。。
何回測っても・・・。

この時も、ビックリしたなあ。この頃は既に運動音痴であることは自覚していたけれど、それほどとは。。。

小6の春の運動会、徒競走でコケた

上述したように、私が通っていた小学校では春・秋の2回、運動会が開催されました。
春のほうを「小運動会」、秋を「大運動会」と呼んでいたような気がします。

小6の頃には自分の運動音痴を自覚していたので、
(なんで運動会が年に2回もあるねん? 音楽会は1回しか無いのに。)
と憂鬱のタネでした。
それでも、行事には全力投球の小中学時代。
ほんま、小中学生って健気や。。。


で、春の運動会ではリレーが無くて、徒競走なのです。

当日本番、ピストルの音でスタートした直後。
足が何かに引っ掛かって、視界がグラっと揺れ、エッ!?と思う間もなく転倒。
無我夢中で立ち上がって(健気や。。。)、前を追いかけました。

練習の時の成績も芳しくなかったので、下位でゴールするのは構わないんだけどね、
まさか、コケるとは。。。
なんか、つくづく自分の運動音痴っぷりが、悲しかったわ。

小6の春の運動会。徒競走で転けた。
小6の春の運動会。 徒競走で転けた。


上の画像のように、ケガの治療を受けている時、母が観覧席から外れて、私の様子を見に来てくれた。
母から「名誉の負傷やねえ。」と言われたが、何の名誉なんだろう??

多分、なぐさめの言葉であって、
そのおかげか、私の悲しい気持ちは少し和らいだ。


この左足の膝のケガ、パックリ割れていてかなり出血した。
なかなか治らなくて、長さ4cm✕幅1.5cmくらいのケロイド状になり、
私はミニスカートを穿けない体になった。
なーんて笑
どっちにしても足が太くて、ミニスカートを穿くのは周りの人を不快にさせるレベルだと思っていたので、
いいんだけどね。

でも、たまーに短いスカートやホットパンツを穿きたいなと思うことはあって、
膝のケガ痕はかなり気になった。


若い時っていろいろ気にしてしまうけど、
実は周りの人って、そんなに他人のこと見てないんだよね。
と、オバチャンになってから気付いた。
そりゃ、あまりにも似合わない服を着てると陰でコソコソ言われてしまうだろうけれど、
数cmのケガ痕まで見てる人はいないと思う。

今、ケガ痕を測ってみたら、長さ3cm✕幅1cmくらいになってた。
皮膚の盛り上がりも無くなっていて、つるんとしている。
これならミニスカート穿ける(笑)けど、
すっかりオバチャンになって、穿きたい気持ちが無い。

ベベ(最下位)じゃなかったらしい

そのあと、友達から聞いたんだが、ベベ(最下位)じゃなかったよ、と。

コケた私に躓いて転倒した子がいたらしく、
私は直ぐに立ち上がって走ったけど、その子はそうではなかったようで。
誰だったのか覚えていない。
その時に聞いても、あまり接点のない子だったのだと思う。印象に残っていないから。
(一学年6クラスもあったので、喋ったこと無い子も多い)

しかし。
私は自分の足の傷を見る度に、その子に悪かったなぁという気持を抱いた。
この文章を書き始める直前まで40年以上、悪いことしたなぁ~と思い続けてきた。

でも。チョット待てよ。
もしかしたら、その子の足が私の進路に入り込んできた為に私が転倒したのかもしれないよね?
それに、ケガをしたのは私だけやし。
そこまで罪悪感を持ち続けることないんじゃないか?
と、この文章を書いていて思ったのです。

ここで、四十数年の心の重荷を一つ下ろそう。
もし、その子が私のせいで転倒したことを今でも恨んでいたとしても仕方ない。
このケースは誰のせいでもないと思うので。
そう。仕方がないことだったと思う。

小体連のサッカー

このように、自分の運動音痴を徐々に自覚していった小学生時代。

克服してやる!という強い気持ちは無かったけれど、ちょっとはマシになりたいと思っていたのか、
小6の時に、無謀にも小体連のサッカーに参加することに決めたのです。

小体連・・・小学校体育連盟のこと。
サッカー以外にも、バレーボールやポートボールなどの種目が有った記憶です。
私は自分の運動音痴を自覚していたので、自分には無縁のオプション行事だと思っていました。

なのに、なぜか、サッカーに参加しようと。
友達に誘われたワケでもないのに。

先生に決められたポジションは、サイドバック(SB)。
味方のゴールキーパー(GK)から見て左側でした。

1~2ヶ月ほど、放課後に校庭で練習が有りました。
ある日、練習中に大粒の雨が降ってきて、ずぶ濡れになりながらも走り回り、
次の日に高熱でダウンしました。

水疱瘡でした。

小6で初めての水疱瘡だったので、発疹の跡が残らないだろうかと
父母はとても心配していました。

療養している間に、試合が有ったので、結局私は出ずじまいでした。

思い切って参加を決めたのに、そんなタイミングで水疱瘡に罹るなんて、
ほんとに私はドン臭いんだな~と小学生ながら苦笑しました。

小体連のサッカー
小体連のサッカー、参加の賞状



その他

反復横跳び、ボロボロ。→圧倒的に敏捷性が無い。
走り幅跳びもダメダメ。

高得点だったのは、立位体前屈と背筋力、伏臥上体反らし。→これって、足が短い、ってことよね。。。

この時、他の子たちよりも背筋力の数値が高くて自分でビックリしたのだけれど、部活動などの経験から私は腹筋がかなり弱いことが分かって、だから裏側の背筋が強いのかも、と思うようになりました。

たぶん、踏み台昇降運動も良かったんじゃないかな。運動能力テストの方で、持久走だけ満点だったから(中学時代)。

(今は、立位体前屈とかは実施項目から外れているんですね~。)

ハンドボール投げがまあまあだったのは、小学校低学年の時に父からキャッチボールを教えてもらって、高学年になっても友達と遊ぶ時にキャッチボールやってたからかなあ。壁に投げて自分でキャッチするとか。

父母は、私のことをいろいろ心配してくれていたのだなあ。

私、自分の子ども達には、そういうの、できてない。ずっと体調不良だから。
体調不良について



子ども達ふたりとも成人しちゃったけれど、今からでもキャッチボール、やりたいなあ。
野球グローブ、欲しいなあ。バットも。
でも、最近は、ボール遊びのできる場所が減ってきてるような。。。
私が子どもの頃は、団地の敷地内でやってたんだけど。

何にしても、まずは体調を何とかせねば。


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現在の視点から、思うこと

元オットとの出会いを書くつもりが、私の運動音痴っぷりをたらたらと書き綴ってしまった。

こんなことまで書く必要無いかなと考えたりもしたのですが、敢えて残しておくことにしました。

小中学生だって、生まれて10年前後しか経ってないけど、いろいろと考えたり、思うことが有ったりするんだよ、って言いたい。

DV元オットなどは自己中心的なヤツだから、相手が子どもでも大人でも「人には心がある」ってことよりも自分最優先で、人をコントロールしようとするのよね。

父母から十分な愛情を注がれ、(自分で言うのは図々しいかもですが)こんなに真面目で頑張り屋さんの女子中学生を、よくも穢してくれたなという、元オットに対する憤慨の気持ちを説明するのに、私の子供時代の描写が有っても良いかなと。

なんか、自分語りみたいで、躊躇もあるのですが。

基本的な性質が、頑張り屋であること、根が真面目なこと、持久力≒忍耐力が有ったこと、が仇となったなあ。
壮絶な婚姻生活を、忍耐力で7年半も継続させてしまった。


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