DV裁判離婚が成立してから、15年ほど経ちました。
元オットは、私が中学生の時の部活の顧問です。
私は13歳、先生(後のDV元オット)は27歳のときに、出会いました。
当時の先生(元オット)から受けた行為は、身体を触られたりもしたので、今ならはっきりと「性暴力」と言えます。
先生(後のDV元オット)への思いは不信感から嫌悪へ
中学生の私は、それまで恋愛経験もなく初めての男女交際で、先生からの好意に真剣に応えようとする一方、「14歳も年下の中学生に手を出すなんて、この先生は性的な好みが変な人なのだろうか?」「道徳的におかしくない?」等と疑う気持ちもあり、葛藤の中、先生(元オット)を信じようとしていました。
精神的に未発達な中学生にとって、苦しくて、心の負担がとても大きな交際でした。
高校、大学と進学し、別の彼氏ができても、先生(元オット)とは年に数回会っていました。
「中学時代の、あの関係は、やっぱり恋愛ではなく、弄ばれていたのでは?」と、ますます苦しくなっていき、中学時代に先生(元オット)と交際したことを、自分の人生の「汚点」「黒歴史」だと思うようになりました。
自分の心の苦しさを和らげようと、「先生は、私のことを気にかけてくれる、兄のような、良い関係の相手なのだ」と、自分に言い聞かせました。
先生(元オット)が女の子(私よりも年下の中学生や卒業生)と一緒にいるところを何回か見かけたこともあり、「やっぱり、かなりの年下好きなのかもしれないな。不純な人間だな。」と嫌悪を感じました。
それでも、年に何度か連絡を取り続けていたのは、おそらく、自分の心を守る為だったのだと思います。
つまり、先生との恋愛(実際は「性暴力」)を否定することは、中学時代の自分の心まで否定してしまうのではないかと。
先生にとって、私との関係は、異常な性癖の対象か遊び感覚だったのだろうと思いつつも、自分が穢されたことを自覚するのが怖かったのです。
私が25歳の時、先生から突然のプロポーズ。交際もしていないのに。
社会人になって数年後、とつぜん、先生(後のDV元オット。当時40歳。)から、
「先生(元オットが自分のことを指している)と、結婚せえへんか?」と、電話で言われました。
私は先生のことをすでに恋愛対象から外していたし、むしろ、上述のように不快感を持ちながらも昔馴染みとして連絡している状態だったので、かなり驚きました。
「先生と結婚する気は全く無い。先生のこと、好きちゃうし。」ときっぱり断りました。
これで、ようやく、中学時代からモヤモヤと複雑な気持ちを抱いていた先生との関係を断ち切れたのだと思い、心の底からスカッとしました。
しかし、約3ヶ月後、またもや、アプローチがありました。私は何度も断りましたが、先生からの説得が続きました。
「今まで交際してきた訳やないから、見合いのつもりで結婚してみようや?」という先生からの提案で、熟考の末、プロポーズを受けることにしました。
私の父母はお見合い結婚でしたが、お互いを大切にし、私たち子どもを宝物として大事に育て、あたたかい家庭を築きました。
(私が14歳の時に父が、その4年後に母が、いずれも胃癌で他界しました。)
父母たちのように、結婚してから少しずつ好きになっていけばいいんじゃないかな、と思ったのです。
また、これほどしつこく求婚されての結婚なら、先生は私を妻として大切にしてくれるだろう、と思いました。
結婚して幸せになれば、中学時代からずっと抱いていたモヤモヤ(人生の汚点、黒歴史)を払拭できるのでは?と考えたのです。
しかし、これは、大きな間違いで、地獄の始まりでした。
地獄の結婚生活
結婚の前後、オットは、自分が理想とする夫婦のあり方をあれこれと語り、自分を夫として再優先する完璧な妻であることを私に要求してきました。
結婚当初は、私は、オットに自分の意見を述べていましたが、オットの理想にそぐわないらしく、連日連夜、口論に発展しました。
口論は、私が泣いて謝り、それでも罵声を浴びせられ、最後に服従させられるまで終わりません。
結婚して夫婦となってから2ヶ月後、そんな新婚生活に絶望して呆然としていたところ、オットは無抵抗な私の顔面を何度も殴りました。
私が悪いから、オットが暴れるのだ、と考えるようになりました。
オットの顔色をいつも窺いながら、それでも出来るだけ穏やかに暮らしていけるよう努めるようになりました。
私は、オットを最優先に考え、細心の注意を払って接しました。
しかし、何をしても、しなくても、ことごとく怒られました。
これでは好きになっていくことはできません。
けれども、私は、「一度結婚したら添い遂げるものだ」という強い決意をもって結婚に臨んだ為、努力を続けました。
好きになることも尊敬することもできませんでしたが、ご機嫌を損なわないように、オットを最優先することに努めました。
しかし、努力の甲斐はなく、オットは度々、突発的に爆発しました。
当時はDVという言葉が今現在のように世間に浸透しておらず、私は自分が妻として不出来であるからオットが暴れるのだと、結婚して7年間、自分を責め続けました。
そして、元オットを最優先したがために、大切な、両親の宝物でもある、自分の弟まで、亡くしました。
第二子を出産して約1年後から、私は謎の体調不良に陥りました。
2~3ヶ月に1~2週間ほど寝込んでしまうことを毎月繰り返す症状で、心身が思うように動かないことに、私は困惑し、苦しんでいました。
私の鬱症状が数日続くと、オットはイラつき、食器や壁を破壊するなどして暴れました。
鬱症状の発症から1年と数カ月後のある日、オットが大暴れして、素手でガラス戸を破壊し、利き手の正中神経を切断するという大怪我をしました。
オットは、自身の大怪我も、ガラス戸の鍵を閉めた私のせいだと脅してきました。
さすがに限界でした。
離婚の話が浮上しましたが、「こんな(大怪我で利き手が使えないという大変な)状態のオレを(見捨てて)ほったらかすのか?」と言われ、家に留まることになりました。
DV被害を認識し、保護命令を経て裁判離婚へ
心療内科で担当医師から、DVのリーフレットを渡されました。
自分たち夫婦にぴったり当てはまっていることに驚きました。
それまで、DVについての知識が乏しく、DV被害を受けているという自覚が無かったのです。
インターネットが徐々に普及していた頃で、ブログという言葉もない時代でしたが、パソコンでDVの相談窓口や体験談などを調べることができました。
暴力オットの支配から脱出することは、オットからの脅しも有り、容易ではありません。
なんとか別居にこぎつけてから、弁護士さんを探し、離婚へ向かっていきます。
友人が紹介してくれた弁護士さんは男性で、「夫婦喧嘩でしょ?」という態度でした。
地方自治体のDV相談室・法律相談も利用しました。
別の友人がDVに詳しい弁護士さんをインターネットで検索してくれて、思い切って相談に行きました。
弁護士さんが「まずは、保護命令ね!」と仰ったので、え?そんな大袈裟なこと?と、衝撃を受けました。
当時の私は、長年のDV支配により自分で考える力が衰えており、また、オットにも少しの良心は有るだろうと信じたい気持ちを持っていました。
今から振り返ると、弁護士さんが勧めてくださった、保護命令→離婚という手段がベストであったこと、かつ、その方法しか無かったと断言できます。
本ブログでは、このような元オットの悪行の数々を書き綴り、現在の視点から考察を加えていきます。
現在の視点からの考察
何人もの中学生女子に手を出す教師なんて碌なヤツじゃないことは、今考えると当然のことなのですが。
子供の頃から家庭や学校生活で「人を疑っちゃいけない」という教育を受けてきましたし、
当時は現在とは違って性犯罪についての情報が少な過ぎたこともあり、
私の両親でさえも、中学生の私に求愛してきた先生(後のDV元オット)の良心を信じたいと考えていたはずです。
私自身もずっとモヤモヤしながらも信じようと努め、迷った挙句に求婚まで承諾してしまいました。
「善い人のはずだ」と信じようとしていた頃の自分を思うと、悲しくなります。
結婚して直ぐにDV生活が始まってからは、私の至らなさが原因でオットが暴れるのだと思い込まされたので、オットの要望に応えようと必死で頑張る日々を送りました。
本当に必死でした。
自分の言動をオットの意に添わせることに全力を傾けていたため、オットのことを信じたいとか信じようとか考えることもなくなりました。
ただ、オットの言動に対して人間性に疑いを持つ気持ちが生じることは多々有り、その度に「自分のオットがこんな人で恥ずかしい情けない」と悲しくて心が苦しくなりました。
やがて第二子が生まれた頃には、オットか私のどちらかが死ぬまでこの生活は続くのだろうなと絶望的な気持ちで生きていました。
キーワード:性犯罪・性暴力,DV,わいせつ教員